上野駅前「岡埜栄泉」元代表様のご冥福をお祈りいたします。

日本サッカー協会協会会長や国際オリンピック委員会(IOC)委員などを歴任され、

日本のスポーツ界の発展に大変尽力されて来られた岡野俊一郎(おかのしゅんいちろう)氏が2月2日東京都内の病院で死去されました。

(朝日新聞の記事より)

JR上野駅前の和菓子店岡埜栄泉(おかのえいせん)は、

創業明治6年(1873)の老舗である。

氏は 老舗の5代目でありながら、日本のサッカー界の発展のため、

日本サッカー協会会長として世界を飛び回る一方、

家業に戻れば「大福」や「どら焼き」の秘伝を守る。

世にも珍しい二足のわらじをはいた。

(朝日新聞・天声人語より)

エイセンハウスとの関わりは、確か何年か前のことでしたが、

息子さんのお部屋探しに母上のご来店がきっかけでした。

また、ご自宅も確か小石川5丁目でもあり、また後段記載の関係もあり多分ご来店下さったものと思っております。

ではどの様な関りかと申しますと、

弊社(エイセンハウス)の前身も和菓子店であり、しかも同じ「岡埜栄泉」であります。

弊社現代表は昭和45年に文京区向丘にあります(現在も)東京都立向丘高校を卒業と同時に家業であります「和菓子の岡埜栄泉」(現在のエイセンハウス本店住所)にて和菓子の修行を始めました。

その後、昭和62年頃でしたか春日通りの収用事業(道路拡幅の為土地を提供)により建て替えを余儀なくされ、

その機会に現在の宅建業の免許を取得いたしました。

そのことも有りまして、建て替え後約10年程は「和菓子店」と宅建業の「エイセンハウス」の「二足のわらじ」を履くこととなってしまいました。

故俊一郎氏も「二足のわらじ」でしたが全くレベルが違いますね!!

ここで少々「岡埜栄泉」の成り立ちなどを、と思います。

故岡埜俊一郎氏の岡埜栄泉は公式HPにもありますように、

明治6年(1873)に今現在の上野駅前に岡埜(野)ちよにより創業されました。

以来現在に至る140年程営業を続けておられます。

現在でも息子さんが後を引き継いで、暖簾を守っていらっしゃいますので大変嬉しい気持ちで一杯です。(弊社は廃業してしましましたので)

肝心の弊社はと申しますと、

現在残っています「過去帳」に因れば上野の岡埜栄泉とは違う流れの一つの、更にその「分家」だったことが わかります。

弊社の本家の創業者である「岡埜弥三郎」は埼玉県桶川市より上京し、

現在の文京区の本郷の「森川町」(現在で申しますと本郷通りと言問い通りの交差点付近、東大農学部斜め前位)という所にて和菓子店を開いたそうですが、

過去帳に因りますと当時は雑草の生い茂る原っぱだったようですね。

弊社はその孫にあたります娘が当時の職人と所帯を持って開店したのが現在の場所となります。

岡埜栄泉の流れを再度見てみますと、

其々の創業者の親は「岡埜喜左衛門」という人で、その子供が5人いたようです。その中の2人が、上野の創業者と本郷森川町創業者です。

更にまたその後の暖簾分け?にて「元祖」か「本家」か分かりませんが「元祖8家」と」言われる「岡埜栄泉」が有ったようです。

多分、多少の違いは有ろうかとは思われますが、

それは、「上野広小路」「万世橋」「駒形」「坂本」「四谷」「住吉町」「本石町」「本郷」の8軒のようです。

但し、これも過去帳に記載されているのが真実とすればの話ですが。

今回たまたまこのような機会にてご先祖のことが少しでも解ったことは大変嬉しく思いました。

以下、現に残っています過去帳の写真です。

          

         

        

ご先祖様に合掌


追加情報です。本ブログ読者様の情報で上野駅前の「岡野栄泉」様は麻布というお洒落な地に移転をさえていることが解りました。麻布の岡野栄泉様の様子はこちらからご覧願います。


情報下さいました読者様に感謝です!
【この記事を書いた人】
エイセンハウス有限会社 代表 岡野茂夫
1952年生まれ。東京都立向ヶ丘高校卒業と同時に家業の和菓子店「岡埜栄泉(おかの_えいせん)」に入店。和菓子職人の修行の道に入る。1986年頃から春日通り収用計画(道幅拡幅工事)に因り和菓子店も建直しを余儀なくされる。新築する建物に“賃貸住宅併設計画“をした為”宅地建物取引士“の資格取得を目指す。1987年、資格を取得と同時にエイセンハウス有限会社(商号は「岡埜栄泉」のエイセンから)設立。平成7年和菓子店「岡埜栄泉」は閉店し不動産業に専念し今日に至る。

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